20190714-20190903

十五祭のセトリ・内容が含まれる話をしています。
円盤までネタバレ回避の方はここでやめておいてください。
すべて個人の感想であり何の根拠もありません。

 

 

 

 

 

 


十五祭が終わった。札幌から東京まで走りきった。
支離滅裂な部分もあるとは思うが、個人的に自分の気持ちを整理しておきたいのでここに記しておこうと思う。

一言で感想を述べろと言われれば考えるまでもなく『死ぬほど楽しかった』に凝縮される。
めちゃめちゃ笑ったしペンライト振り回したし大声でコール&レスポンスした。

去年はどうしたってすばるくんの声を探してしまって、あぁ、ここも違う、この声じゃない、なんて自分で勝手に自分の傷を抉って悲しくなったり寂しくなったりしたけど、今年はそんなことはほとんどなかった。
あ、ここは安田さんになったのか。ここは横山さんになったのか、という、純然たる事実をただ受け止めただけだった。
これが時間というものか、とほんの少し寂しくなったりはしたけれど、去年ほど絶望的な気持ちにならなかったのは、たしかに時間の経過もあるがそれ以上に彼らが歌を自分のものにしていたのが大きかったのだとも思う。

なにもかもがストンと胸に入ってきた。優しく、あたたかく、力強く、ときにかわいくかっこよく、楽しく。
メッセージソングに至っては、どれだけ昔の曲でも今の彼らにもしっくりくるように感じていた。年齢も立場もあの頃とは全く違うのに、だ。けれどそれは、彼らがあの頃と同じくずっと前だけを見て、上を目指して、でかいことをしようと頑張り続けてくれているからかもしれない。
だからわたしは彼らが大好きなんだ。

俺たちは夢しか見ないんだ
それでも「一歩先」へ
進むんじゃない 進めるんだぜ
まだまだ終わらないから

彼らの歌の説得力よ。


15年を背負って歌う彼らは、とてつもなく眩しかった。
映像には内くんもすばるくんもいて、それはとてもエモーショナルを呼び起こされたけれど、とんでもない大事件ではなく、ただの事実だ。一つの過去だ。ふたりは確かにそこにいた。関ジャニ∞は8人だったし、7人だったし、6人だ。

オーラスの勝手に仕上がれの横山さんは力強くて、あまり見たことのないほど力の入った歌い方をしていた。最年長の絶対また会いましょうはなによりも強い願いで、お守りだ。

あんなにはしゃぐ村上信五を、あんなに穏やかにメンバーを見つめる村上信五をテレビで見たことがあるか?あの場では最高に楽しんでいい、ふざけていい、素のアイドルでいていいという彼のわたしたちへの信頼に他ならない。

ロマネの落ちサビを歌う錦戸さんのとても笑顔があまりに優しくて、楽しそうに会場を眺めていて、わたしはとても自然に『わたしたちはこのひとに愛されている。大切にされている』のだと感じた。錦戸さんは他のメンバーに比べると多くの言葉を用いるタイプではない。けれどそのかわり、いつだって表情で、パフォーマンスで、行動で示してくれるのだ。

安田さんは錦戸さんとは真逆で、言葉を尽くすタイプのひとだ。そのひとがこのツアー中何度も何度も、ここまで連れてきてくれてありがとう、と言ってくれた。去年の安田さんが嘘だったみたいに跳ねて、踊って、走って、歌って、命を漲らせていた。

去年よりは幾分か肩の力が抜けたように見える丸山さんは変わらずファンを幸せにする術に長けたひとで、アシュラマンになりたいと言ってくれたその気持ちがなによりも嬉しかった。

今年から若頭となった大倉さん。演出、構成のメインが大倉さんだという話を聞いた。わたしには、このコンサートそのものが大倉さんの、彼らの愛に思えてならない。

歌割の変更は大変だろう。14年ずっと真ん中でマイクを握り続けていたひとがいなくなって、そこを他のメンバーでかわるがわるマイクを持つのだ。演奏との兼ね合い、ハモリのバランス。誰かがそこを歌えればいいというものじゃない。ダンス曲なら当然フォーメーションも変更しなくてはいけない。


彼らには、選択肢があった。やり慣れた曲を多くやることも、お祭りだからとトロッコやファンサ演出をもっと多くすることも、どうにだって調整できたはずだ。だけどわたしの愛する彼らはそれをしないのだ。

開始早々ポップアップで飛び出し、歌詞を一新したメンバー紹介曲で走り出し、披露するのは初めてばかりの日替わり演奏をこなし、彼らの中でもトップクラスで難易度の高いダンス曲をあえて終盤に配置する。どれだけ大変かは想像に難くない。
それを我々のためにやってくれる。それが愛じゃなくていったいなんだっていうのだろう。


悪魔の証明というものがある。
『元々は中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉』(by Wikipedia)なのだが、転じて、「存在しないこと」「そうではないこと」などの証明の困難さを表す言葉としても用いられる。

例えば幽霊がいるとか、UFOが存在するとか、そういうことだ。それが存在するということを証明するためには、たった一例でいい。一例だったとしても、それは間違いなく「あった」からだ。
けれど「存在しない・ない・ありえない」ということを証明するためには、可能性という可能性をすべて調査してからでないと、存在しないと言えない。そうでないと「存在しない」ということの証明にならないからだ。
はたしてそれができる人間がこの世にいるのだろうか。
「ない」とういことを証明できなければ「ある」、という究極の詭弁。

わたしは、今回の諸々の不安や、言いようのない澱みはそれに似ていると思っている。こんな言葉打ちたくもないけれど、解散とか、脱退とか、そういうことを証明・推測するには、たったひとつの疑念があればいい。けれど、当たり前にずっと存在し続けるということを証明することはできないのだ。
「続く」ということを証明できないのであれば「続かない」のだ、という極論が出てくるのである。

もちろん不安を抱く気持ちはわからなくはない。なぜならわたしたちは、なによりも信じていた永遠がないのだということを去年痛いほど知ってしまったから。
そして大倉さんもラジオで言及していたとおり、マイナスの言葉はプラスの言葉よりもひとつひとつの力が強い。かのSMAPさんだって歌っていた。疑い始めればキリがない。

だからわたしは常々意識して生きている。
別にそんなもんごちゃごちゃ考えないでいようと。
わたしはわたしの愛する男たちが、余計なフィルターもなにもなくわたしたちに、わたしに伝えてくれたそれだけを信じていたい。

上述したように彼らは大変だっただろうなって推測すること自体、本来は野暮ってもんだろ、とも思っている。

最近の彼らにはドラマが多すぎて、踏み込むのに二の足を踏んでしまうのではないかなんて余計な心配をしてしまう。
そんなことない。いいんだ、別に。錦戸さんほどの男前が実在するのか不安だから存在を確認したいでも、安田さんの下ネタ聞いてみたいでも、横山さんのトランペット聴きたいでも、村上さんの脚の長さを近くで測りたいでも、大倉さんの顔を堪能したいでも、丸山さんの噂のファンサを拝みたいでも、なんでもいい。なんか楽しそうだな、くらいでライブに遊びに来てほしい(チケットは……チケットは……その、大変だけど)

だからわたしは誰かにライブどうだったかと問われたら、死ぬほど楽しかった!幸せだった!おいでよ!と言いたい。
何度反芻しても噛みしめても最高以外の言葉がない。
たぶんわたしたちが抱く感情は、それだけで充分なのだ。


十五祭、最高のお祭りだった!
楽しかった!円盤が楽しみ!!!!!
最高で最強の関ジャニ∞がだいすきだ!!!!!!!!!!!


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